心臓病を理解しよう

人工心肺装置開発前の心臓病との戦い

Alexis Carrel

Alexis Carrelは1837年フランスのリオンで生まれリオン大学の医学部を卒業している。当時フランスの大統領が1894年リオンで演説後にアナーキストに刺された。腹部の門脈という血管を損傷したが当時の外科医は血管を修復する術をしらず大統領は死亡した。これをきっかけに彼は血管の修復を研究の対象としたと言われている。その後アメリカのシカゴに移り、Charles Guthrieとともに血管の吻合、移植、臓器移植等の外科手術の基礎研究に従事した。血管を切ったり縫いつけたりすることが可能であるという今では当たり前のことを実験で証明したことはその当時は画期的でありこの功績でノーベル賞を受賞しました。彼はその後フランス軍に仕え第2次大戦前にはドイツ軍と親密になり人種差別につながる優生学を提唱し、彼の名声に傷をつけたと言われている。

 
僧帽弁狭窄症

ボストンのElliott Cutlerは重症の心臓病の一つの原因はリウマチ熱による心臓障害ではなくリウマチ熱から僧帽弁狭窄を来すことを剖検から見出し僧帽弁の狭窄を切開することを考案した。1923年に12歳の男性に左心室から小さな穴をあけそこから器具で僧帽弁を切開することで僧帽弁狭窄症を手術した。患者は4年間生存した。その後6人の患者さんに手術をしたが成功したのは最初の1例のみであった。ロンドンのHenry Souttarは血液が漏れないように左心耳に糸をかけ指を入れて僧帽弁の癒合した交連部を広げる手術を行った。患者さんは成功したがなぜかこの1例しか手術は行われなかった。僧帽弁狭窄症の診断そのものが困難な時代であり患者さんの紹介はなかったがこの方法は今後の僧帽弁狭窄症手術の基本になった。1948年にフィラデルフィアのCharles Baileyは同様に僧帽弁狭窄症に対しての手術を試みている。最初の4例はすべて死亡し、病院が手術を不許可にしようとした当日に別の病院で手術を行い5例目にして手術を成功させている。余命6か月と言われた24歳の女性の手術を行った。左心耳にナイフを忍ばせた手を入れ僧帽弁の癒合部位を切開した。彼女は元気に退院しその後子供も出産し育てることができた。Charles Baileyは一流の大学出身ではなかったがその当時の様々な心臓手術を世界に先駆けて挑戦していた。その彼の野心と失敗しても動じない精神力は尊敬に値するが、当時の心臓外科医には疎まれることもあった。時を同じくしてボストンのDwight Harkenも僧帽弁狭窄症に対して左房からブラインドで指を入れてナイフで広げる手術を成功させている。

 
先天性心疾患

 最も有名なのがジョンスホプキンス大学のAlfred Blalockが1944年に行ったBlalock-Taussig手術である。ファロー四徴症などのチアノーゼが出現する先天性心疾患の患者さんは動脈管開存症を合併するとチアノーゼが軽く動脈管開存症が閉鎖するとチアノーゼがひどくなることが小児科医であるTaussigらにより判明し、よって鎖骨下動脈から肺動脈へのシャントを行う手術を考案した。心臓そのものを直す根治手術ではなく姑息手術ではあるものの症状の改善は劇的であり世界的に評価され今でも標準的に行われている手術である。彼は1500例のこの手術を行い85%の長期成功をおさめている。

フィラデルフィアのCharles Baileyはドーナッツ法として心臓が動いたままでの心房中隔欠損症の手術を1952年に成功させている。大きな右房を心房中隔欠損に寄せてそれごと縫うことによって欠損孔を閉じる方法で右心房がドーナッツのように見えるのが特徴です。

 
大動脈弁植込み(胸部大動脈へ)

ハーバード出身のCharles Hufnagelは1952年に大動脈弁閉鎖不全の患者さんに対して、下行大動脈に自ら開発した人工弁を植え込んだ。人工心肺装置のない当時としては心臓の中の大動脈弁を人工弁に置換することは不可能なため下行大動脈を一時的に遮断して人工弁を植え込んだ。その当時の人工弁はケージの中にボールを入れたラムネのような弁であり、音が大きく数メートル先でも人工弁の音が聞こえるほどであったそうだが、そこから改良が加えられていった。

 
低体温法による心臓内手術

人工心肺装置が無かったころ、心臓内手術をどうするかで多くの実験がされた。その中で体温を冷やし全身の循環を一時的に止めてその間に手術を行い全身の臓器を保護する方法が試された。 1952年にまたもやフィラデルフィアのCharles Baileyが心房中隔欠損症の患者さんに低体温法で欠損を閉じる手術を世界で初めて行った。全身麻酔後に30歳の女性を大きな冷蔵庫に入れて体温を20度にして全身の循環が止まったところで心房中隔欠損を閉じましたが、低体温の合併症である心室細動が改善せずまた空気が心臓内に大量に入り空気塞栓も合併し死亡した。その直後ミネソタのOwen H. Wangensteen門下のJohn Lewisが同様の手術を5歳の女児に行い世界で初めて成功させた。低体温法に加え上下大静脈、大動脈をクランプし空気が入らないような工夫をした。その10日後にCharles Baileyが同様の手術を成功させたその後、この方法はしばらく続いたが、手術時間が20分程度と限られ温度調整が大変であったこと等により人工心肺装置が出現してから姿を消した。しかし、低体温の病態生理や臓器保護効果はその後の心臓外科の進歩に欠かせないものとなった。また人工心肺装置が難しかった新生児、小児に対してはしばらくは使用された。

心室中隔欠損症に対してもフィラデルフィアのCharles Baileyが最初に手術を試みたが成功したという報告はできずそれ1例のみであった。またミネソタのJohn Lewisも心室中隔欠損に対して心房中隔欠損症同様に手術を試みたが2例とも術中死を来した。彼はこの失敗によりしかも子供の患者を手術で失ったことに対し精神的動揺を来し心臓外科を辞めていった。その後ミネソタ大学の心臓外科は C. Walton Lilleheiに受け継がれた。当時は手術で患者さんを亡くすストレスと動物実験に対する風当たりで精神的に耐えられず心臓外科から離れていった優秀な医師が少なからずいた。

 

       Charles Bailey